おはようございます!
←沖縄旅行で失くしたナマケモノ・・・
さて、
日曜日の今日は何のためにもならない、ちょっとした小話を。
居酒屋の酒のネタにでもしてみてください(笑)
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▼ 『島原の乱』の不思議あれこれ
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天草四郎が声を上げて、幕府軍に対して一揆を起こした『島原の乱』というのがあります。
#1637年 – 1638年
#寛永14年10月25日勃発、寛永15年2月28日終結
この史実は教科書にも載ってる割とメジャーな歴史の一つだと思うのですが、この『島原の乱』には『おかしな点』がいくつかあると言われています。
先ず、島原の乱って『キリシタン宗教弾圧』みたいな事で言われています。
つまりそれが幕府軍の『大義名分』だったんですね。
で、島原の乱って1637年スタートなんですが、終結まで約4か月ほど続いたんです、一揆が。
島原軍って約37000人程だったんですが、敵対する幕府軍は12万から13万人いるんですね・・・
先ずここで一つ。
「幕府。本気過ぎない?」という点。
#そんな怒る?
島原軍って、『軍』って言ってますが、結構女、子供戦ってるんですね。
の、こみこみで『37000人』であると。
んで、一方幕府軍はもうこれ『兵隊』です。
訓練されまくった、『戦うための人たち12万~13万人』なんです。
まず、、、
「えっ⁉ もうブチギレてんじゃん・・・。」
ていう。
徳川幕府ともあろう軍団が。
女子供含めた37000人一揆に対して、プロ部隊12,3万人で制圧しに行くって、「えらい本気だなぁ」っていう。
まずこれ「徳川幕府本気すぎない?」問題が一つ。
ほんで二つ目。
島原軍37000人・・・これ、『全滅』してるんです。
戦ではちょっと考えにくいんです。
基本、『大将の首』を取ったら終わりなんで。
#「とったぞー!!」が終わりの合図
つまり、『天草四郎の首』を取ったら終わりのはずなんですが、『島原の乱』はこれでは終わらないんです。
『天草四郎の首』を取った後、島原の人全員やられちゃってるんです。
『大将の首』取った後で、島原軍全滅しちゃってるんです。
戦いは終わったはずなのに、
勝負はついたはずなのに、
「…まだやる?」
これが二つ目。
そしてもう一点。
『島原軍』37000人なんですね。(#しつこい)
んで、『幕府軍』12,3万人に襲われてるわけですが、
そんな状況で「約4か月ねばる」って凄くないすか???
その、、、
『いち市町村』37000人が、
『国家の兵隊』12,3万人を約4か月押し返す(ねばれる)だけのそんな『武器』とかあったの? 食料とかは??
『島原の乱』って、『宗教弾圧』の理由ともう一つ、『飢饉』があったんです。
そう、飢饉が重なってて、それで島原の人が「もう耐えれない!!」っつって「わぁーーー!!」って一揆起こしてるんですけど(#急に雑)、
「ご飯は⁉」
「飯も大して食えない中、4か月もねばってんの⁉」
「『幕府』っていうプロの兵隊集団を4か月押し返すだけの、なんか弾薬とか弓矢とかがそんなむちゃくちゃあったの⁉(#いち市町村に!)」
これって、ちょっと変じゃないですか。。
いろいろ紐解いていくとちょっと変なんですけれども、
まずですね、
『島原の乱』って『宗教弾圧』みたいな事を言われてますが、
紐解くとちょっと違くて、『島原軍』の中心メンバーの中にキリシタンがいたっていうだけの話なんですね。
つまり、『キリシタンの集団』じゃないんです。
メンバーの中心の何人かにキリシタンがいたってだけなんです。
これを口実に、幕府が「キリシタン弾圧だ!」っていう事で「ぐわっ」て行ったんですね。(#急に雑②)
別に『キリシタンの一揆』じゃないんですよ、『島原の乱』って。
事実、大元の『バチカン』はですね、「いやそれ、キリシタンの仕事じゃないっす。」みたいなことを言ってるんですね。
#これは見方によって諸説ありますが、事実としてバチカンの中で『聖戦認定』はされていないようです。
#キリシタンがらみの戦争は『聖戦』として扱われ、そこでの戦死者は『聖人』として認定されるが、天草四郎は認定はおろか、殉教者にもなっていない。
#カクレキリシタンは日本土着の宗教だからキリシタンとは別宗教だとの見方も。。
つまり、『キリシタン宗教弾圧』ではなかった可能性が非常に高い。
だけど、幕府は『宗教弾圧だぁー!』ってことで、「ぐわっ」っと攻めたと。
色々変ですよね。
「徳川幕府本気出しすぎだし。」
「島原軍が4か月ねばれるだけの、武器やら何やら揃ってたのもおかしい。」
「しかも女子供含めた市民とかだけで。」
「しかも、『全滅』するまで徹底的にやられてる。」
「ほんで何これ、『キリシタン弾圧』じゃなかったの?」
何⁉ 何⁉ 何⁉
これらを紐解くような都市伝説なんですが、、、
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▼ 『わらべうた』
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『わらべうた』(童歌)っていうのは、子供たちが歌う歌ですね。
京都地方に残った童歌(#京・大坂の民衆は豊臣びいき)でこのようなものがあります。
「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたよ加護島へ」
#『左衛門佐君伝記稿』(幸村の死から200年後)
「花のようなる秀頼さまを…」っていうのが、『豊臣秀頼』ですね。
#豊臣秀吉の息子さん
「鬼のようなる真田がつれて…」って言うのはもう、皆さんご存じ『真田幸村』。
#もうすっげえ家臣ですね。
#超有名な
#超つよい奴
「退きも退いたよ加護島へ」
つまり、、、
「逃げてきましたよ、鹿児島へ」
っていう歌なんですね。
ん?
豊臣秀頼と真田幸村は、『大坂の陣』で死んでるはず、なんですね。
『大坂・冬の陣』『夏の陣』で、命を落としているはずなんです。
#史実ではね
そこで死んでいるはずなんですけれども、この歌が残っていると。。
大阪で死んでいるはずの秀頼と真田の歌が詠まれている。
そしてそこには『加護島』とある。
ここで出てくるんですね『鹿児島』が!
「『鹿児島』に、秀頼と真田が逃げてきましたよ」っていう歌が詠まれている。
実際にですね、鹿児島には『秀頼』と『幸村』のものと言われている『お墓』があるんです。
大阪で死んだはずの『秀頼』と『幸村』の墓が、『鹿児島』にある!
おぉーーっ!!
#テンションあがるポイント
んでこっから話が繋がってくるんですけども、
「秀頼、どうやら島原に逃げたんじゃないか、真田と一緒に」説。
っというか、豊臣秀吉が、
「家康やばいね・・! なんかもうグイグイ来てるね!! うちの息子の代になったらもっと大変そうじゃない!!?」
ってことで、秀吉がですね、もう島原にですね、最後の砦(#『豊臣』最後の砦)として、『島原』っていうのを用意しておいて、そっちに武器やら何やらを用意しておいて、「最悪なんかあったらここに逃げ込め!」
「ここに逃げ込んで、最後はここで戦え!」
という場を用意しておいた。
大阪城が落城し、秀頼と真田はもうその秀吉の教えの通りに『島原』に行って、
「こっからもっかい豊臣の逆転狙うぞ・・・!」って計画を立て、
秀頼は子供が産まれ、
そこで産まれた子が『天草四郎』
#テンションピーク
なので、天草四郎って15,6歳ぐらいなのに『総大将』になってるんです。
普通変ですよね。
なんで14,5,6歳ぐらいの少年に、島原の人たち全員言うこと聞くのっていうのは、
これ結論ですね、
天草四郎っていうのは、
『豊臣秀吉の孫』であったと。
つまり、『島原の乱』というのは、
「『豊臣家』と『徳川家』の最後の戦いであった」
だから『徳川』は何としてでも、
「ここで豊臣の息の根を止めておかないと・・・!」
「もう1回来られるから、もう1回来られてしまったら・・・」
ってのがあったから、「ここで全部終わらせなきゃいけないっ!」ってことで、『全滅』まで追い込んだ。
なので、『島原の乱』っていうのは
「『豊臣家』と『徳川家』の最後の戦いでした!」
チャンチャン♪
#諸説あります
#信じるか信じないかは・・・
わかんないっすけどね(笑)
でも、
一番好きなストーリーなんで、
僕はこの線を信じてます!
酒のあてにでもなれば幸いです(笑)
今日もありがとう!
じゃ
またね。
阿部
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